人は人を正しく殺せる

事が正しいと観測可能な間は、誰でも味方についてくれます。
1人では正当に正当化できることはないですが、自分の中だけであればなんとか。
では、より多くの人で正しいと観測すれば、より正しい事になるかもしれません。
10人で殺せば10人のなかでは少なくとも正当化できる?
100人,1000人,10000人でとしていくと… 具体例には死刑や戦争などと規模が大きい。
具体例に正しいと死を挙げただけにすぎず、生活の至る所に存在しています。

これでは物事の本質などなく、人間は主義・思想によってしか物事の判断できない。
直接的に観測しているわけではなく、物事が及ぼす影響を観測して経験則から判断していると。



ここまで思って主義思想といえば文化で差がある。
では海外はどうなっているの?

国連委:死刑停止決議を採択 支持増加、日本は反対

http://mainichi.jp/select/world/news/20081121dde007030064000c.html


国連委:死刑停止決議を採択 支持増加、日本は反対

 【ニューヨーク小倉孝保】国連総会第3委員会(人道問題)は20日、死刑執行の一時停止などを求める決議案を賛成多数で採択した。同種の委員会採択は2年連続で、支持は6カ国増えた。日本は07年に続き反対した。12月の総会で採択され正式な決議になるが、死刑執行停止を求める国際社会の圧力は確実に増加している。

 決議案は欧州連合(EU)やオーストラリア、イスラエルなどが提案し、賛成105(07年99)、反対は日本、米国、中国、イランなど48(同52)、棄権はキューバなど31(同33)だった。決議に強制力はない。

 決議案は、07年に採択した決議を再確認し、潘基文(バンギムン)事務総長が先日、総会に提出した報告で、死刑廃止は世界の流れであるとして執行の一時停止を提案し、停止が難しい場合でも執行に厳しい規制をかけるよう推奨したことを歓迎。2年後の総会で、その時点での死刑廃止状況と死刑を存続させている国への働きかけ方について、改めて話し合うよう求めている。

 委員会の協議で、死刑維持派のシンガポールやエジプト、スーダン、シリアなどは「司法制度の選択は主権国の権利であり、外部から押しつけるべきでない」と主張。一方、イタリアやフランスなどは、「人命尊重の観点から、死刑執行を停止すべきだ」と説明した。日本は決議採択後、「わが国の世論調査では、死刑が支持されている。死刑については国際的合意もない」と反対理由を説明した。

 国連の報告によると、7月1日現在、死刑を廃止もしくは事実上廃止している国・地域は141に上っている。国際人権団体「アムネスティ・インターナショナル」によると、89年に100カ国だった死刑執行国は、07年には24カ国にまで減少した。国連の規約人権委員会は10月30日、死刑廃止へ向けた取り組みを日本政府に求める勧告を盛り込んだ「最終見解」を公表している。

毎日新聞 2008年11月21日 東京夕刊


結局の所良くも悪くも「多数決」
これが民主主義なのだと。
世界単位になれば何でも正当化できそうな気がしてきました。
となると私は排斥されるべき対象のような気がしてならない。

個人が排斥されるのは茶飯事ですが、国家単位でも起こりうるかもしれないですね

「大量の死刑執行」、国連報告は「偏見」と反発―中国外交部
http://www.recordchina.co.jp/group/g26102.html

何を以て思想を振りまくのやら。

主義・思想の統一

とすれば、主義の統一が比較的楽に物事を正当に正当化可能でしょうか?
日本で育って教育を受けているなら、「教え」だけでなく「環境」などにより統一されている気がします。

このように主義がかなりの割合で刷り込まれていると考えると
「思想・主義がない」
これが一番怖い気がします。
書く規則すら定義されていないのは扱いやすい。
これは衆愚政治の始まりです。
何も考えてない人間は居ないと信じていますし、心の中にひとつは理にかなう主義を所持しておくべき。

それで。

このような結論まで至りました。
とりあえずものごとの本質のことを真実とでも定義しておきましょう。

「真実」は観測や観測者ごとに変化するものではありません。
少なくとも私はそう考えます。

真実そのものは観測できませんが、それが及ぼす影響を観測して真実を推測することしかできません。
よって推測の正しさ・尤もらしさを自分で常に評価すべき。
推測は真実ではなく常に真実の近似でしかない。



//そんなことより語尾が統一されてない気が
//個人的にデスマスに違和感がある.
//かといって、使いやすいデアルダだと堅苦しい
//なので間取って統一感が…と言い訳